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日本のカレーライスを探る(2002年執筆/03年、09年加筆) |
■日本人とカレー
われわれ日本人の国民食というアンケートを某ラジオ局の某番組が報じていたところによると、ラーメン、カレーライス、うどんが主なものであった。なんといかにも日本的なうどんが三位なのである。そういう私も気がつけばその順位で食べる頻度が一致している。悲しいくらい一致している。さて、その中でもカレーに関してある面白い動きが出てきたので、それを検証しつつその歴史を探ってみたいと思う。
■ 横須賀市「カレーの街」宣言■
事の発端は平成11年5月20日、神奈川県横須賀市は「カレーの街よこすか」宣言をし、まちおこしを推進するための組織「カレーの街よこすか推進委員会」を発足させたことにある。同県のみならず、東京でもコンビニなどで、あの懐かしいジャガイモの入った黄色いカレー、『横須賀海軍カレー』なるものが登場し始め、弁当やレトルトのコーナーを賑わす事となった。最近のエスニックブームで日本人の心のカレーが少なくなってきたことに嘆く貴兄には嬉しいまちおこしである。竹下内閣のふるさと資金以来、まちおこしが各都道府県市町村のあいだでブームになっているのだが、最初はとまどう様子が、純金のカツオやシャチホコにあらわれている。やがて同じくして海軍の街、京都府舞鶴市が平成7年に『肉じゃが発祥の地』を宣言し、つづいて宣言をした広島県呉市と本家争いを現在でもしている。まちおこしが意外な方向へ傾いていった興味深い一例としておこう。
■海軍の街■
横須賀という街は海軍と共に歩んできた歴史があるのだが、近代海軍の士官養成急務のため明治三年に築地に開設された『海軍操練所』(同年に海軍兵学寮と改名)の分校として、明治六年にイギリスの海軍教育使節団を招いて開設された施設がその第一弾である。しかし幕府の横須賀製鉄所が、後の明治政府の横須賀造船所、横須賀工廠であることから考えると、その歴史はもっとさかのぼる事ができると言える。ともあれ士官養成所、造船所、そして後には鎮守府と、横須賀が海軍にとって重要な都市であったことは言うまでもない。この様にして横須賀が海軍の街と宣言するのは解ったが、問題は海軍がカレーと結びつくのか?である。
■明治政府と洋食■
さきに述べた通り日本人の好きな食べ物といったら、カレーにラーメン、肉じゃがなどと、実は古来より存在する食べ物よりも明治維新以降、かなり近代になってから登場したものが多い。それ以前からあった寿司やそば・うどんにしても江戸時代末期のものである。ともあれ、とかく栄養バランスのとれた料理が出現するのはやはり維新以降の明治四年『肉食禁忌』が解かれてからであり、また多くの馴染み深いニンジン、たまねぎ、ジャガイモなどの野菜が日本に登場したのもこのあたりである。しかし、あまり見なれない料理を多くの人間がほいほいと食べるのも、当時の事であるからかなりの抵抗はあったに違いない。鹿鳴館(明治十六開設)では政府関係者から女性たちに「(外国からの来賓に体裁を整える為に)着物をやるから(あなたたちも一緒に)洋食を食べてくれ。」というお願いまで出た程である。当時は『洋食=バタくさい』という嫌悪感と、やはり永年の『肉食禁忌』の呪縛は存在していたに違いない。ともあれ幕府とは打って変わって近代化をあせる明治政府の西欧信仰はすさまじいものがあったであろし、なかなか順応できずにいる庶民の姿も想像に難く無い。
■日本人と最初のカレー■
さて、そのような現状を打開しカレーを普及させたのが海軍という説もあるが、民間が先か、海軍が先かという点では、なかなか詳しい文献が無く謎のままである。しかしカレーをいち早く見たのは紛れも無く政府側の人間である。とは言っても明治政府ではなく幕府側と言った方が正しい。文久三年(1863)の薩英戦争や長州と諸外国連合軍の馬関戦争、また両藩による外国人殺害事件の多発など幕府を悩ます事態が相次ぐなか、幕府はフランスのナポレオン三世に助力を求めるために遣欧使節34名をフランスの砲艦モンジュール号でヨーロッパに派遣させた。途中、フランスの郵船に乗りかえた一行が見たインド人達が食べていた料理がカレーではないかという文献がある。ただその記述には「芋のドロドロのような物」とか「手にて掻きまわして手づかみで」などと大変汚い食べ物に見えたらしく、あまり好印象を受けてはいないようだ。これを後生の子孫たちが好き好んで食べる姿は想像も付かなかったことであろう。なお本国へのカレーの渡来は、安政六年(1859)の開港以後イギリス船によってもたらされたとい言われるが、以降の普及についてはどこにも記されていない。
■民間のカレー■
一方、新生帝国海軍とカレーを結び付ける圧倒的な証拠は時を隔てた明治四一年の『海軍割烹術参考書』を待たねばならない。ところが明治五年、すでに「西洋料理通
」「西洋料理指南」という文献が民間で発表されているし、明治十年には風月堂という食堂でカレーライスがメニューに加わっている。これだけの事実を見ればカレーが海軍の発祥どころか、民間の方がはるかに早く導入していたと考えるのが自然だ。ただしこれは現在に換算すれば3〜4千円と高く、しかも娘を身売りするのが当たり前になっているほど貧しかった庶民(『ああ、野麦峠』の様な悲劇は昭和まで続いていたという…)には全く食事としての対象外であっただろう。文献にしても、見た事も聞いた事もない料理を作ろうとした者がいたのかも怪しく、また作ろうとしたところで、現代の流通
システムでさえ手に入らないものが存在する状況を考えれば、当時、材料があちこちの小売店で手に入ったのかが疑わしい。カレーが庶民に普及するのはカレー粉や即席カレーライスのネタが登場する明治30年代以降であるらしい。つまりそれまではターメリック、セージ、クローブなどの香辛料を自分で掻き集め調合して作らなければならなかった。しかもお馴染みの野菜はまだ無い状態なのである。余程の裕福な趣味人でもないかぎり口にする機会さえなかったであろう。
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■インド式・中村屋のカレー■
話はややそれるが、最近のエスニックブームによって本場インドカリーやタイ式カリーが当たり前のように食べられるようになった。そうなってくると日本のカレーは本当にイギリスから渡ってきた欧風カレーなんだな、と思われがちだが、実は雑誌でもイギリス風と紹介されている銀座中村屋のカレーはインド式がルーツなのである。このインド式カレ−は中村屋創業者・相馬愛蔵が昭和2年に娘婿ラス・ビハリ・ボースの勧めで開発した商品であるらしい。当時、カレーといえば英国経由の西洋料理で、既に大衆料理になっていたが、ボースが勧めたのはインドの貴族の本格的なカリーライスだ。しかしこの
ラス・ビハリ・ボース、実は彼はインド独立運動を行っていた革命の志士なのである。当時インドを統治していたイギリスの総督であるハーディング卿の暗殺に失敗したボースは大正4年日本に亡命してきた。だが英国政府はボースを国外追放するよう日本に迫る。相馬のお人柄か当時の中村屋はお店の裏にアトリエがあり、芸術家たちや外国人たちが出入りしていたらしい。そこを隠れ家にしようと目論んだボースの知人は相馬愛蔵にボースをかくまってもらうことを相馬夫妻に頼んだ。その後、ボースは隠れ家を転々としたが、連絡係の相馬家長女の俊子が彼と結婚したため彼と中村屋との関係はより密接になり、日英同盟解消までの6年近く俊子はボースの身辺を守りぬ
くという大役を果たした。逃亡生活の途中、ボースは俊子に郷土料理を作ってもらったようだが、それがカレーでなかったかと思われる。その後、俊子は過労のため死去したが、ボースは彼女の恩にむくいるため日本に帰化し、中村屋の本格インド式カレー誕生に貢献したと言う。日本のカレーがボースの口にあわなかったのか、それとも統治国イギリス風というのが気に入らなかったのかは知らないが、ともあれボース、プロデュースの中村屋カレーは純インド式の魁となった。しかし時間の流れはいつしか中村屋のカレーを欧風カレーにしてしまったのは皮肉だ。
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カ日本初の純インド式カレーをプロデュースしたラス・ビハリ・ボースと相馬俊子
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■脚気と海軍■
さて話は戻し、『海軍割烹術参考書』という文献が記されるのにはかなりの時間を要したと予想され、試行錯誤や試験期間も顧慮すれば、もっと早い時期に海軍はカレーと出会っていたのではないかと考えられる。では実際、海軍内部にカレーが登場するのはいつ頃になるのだろうか。その疑問をダイレクトに答える文献がないのだが、それを推理するのに面
白い話がある。当時の陸海軍には、脚気(かっけ)が蔓延していたという話がそれである。これは放置すると死に至る病であり、軍への蔓延は深刻であった。明治十五年(別
の説では十六年)にアメリカ方面へ航海していた軍艦「龍驤」は、9ヶ月間の航海中に乗組員378名のうち168名が脚気を患い、うち25名を失うという事態に陥った。しかし、ホノルルでの滞在中、栄養のある食事を与えてほとんど回復したという。近年、NASAがアメリカ国民の肥満化を防止する研究をして、和食が一番だと発表したのはあながち嘘ではなさそうだが、この時点ではまだ海軍が艦上食に洋食であるカレーを採用していなかったことがうかがえる。
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■ビタミンの父・高木兼寛■
カレーとは直接関係はみられないが、明治八年、西洋医学を習得するため横浜港よりロンドンへ向けて旅立った海軍中軍医、高木兼寛に話題を傾けてみる。宮崎県高岡町出身の彼は鹿児島藩の軍医であったが、当時の鹿児島藩の軍医は漢方医だったため外科の知識があまりなく、戊辰戦争においては負傷者が出ても効率的に兵の手当てが進まなかったようである。これを重く見た高木兼寛は海軍省に入りイギリス留学の志しを果
たすのであった。細菌学が主流であった当時、脚気病は細菌による伝染病と考えられていた。しかし、イギリスでは殆ど脚気が見られなかった事から、帰国後、高木は両国の食生活の違いに着目し、この病気が食事の栄養欠陥から起こるものとして「兵食改善」という予防法に取り組んだ。そしてすべて洋食に変更した艦上食をもって軍艦「筑波」の航海実験を行なった結果
、脚気は発症しなかったのである。このことから高木は、食生活と病気に何らかの因果 関係がある事に気付き、兵食を米麦等食とする事で脚気は予防できることを発見した。ビタミンが発見され、脚気病はビタミンB1の欠乏により起こることがわかったのはその後の話である。彼の業績は日本のみならずイギリスでも称えられているという。
■兵站とカレー■
高木が留学から帰国したのが明治十三年、「龍驤」の事件が明治十五年。「明治期の日本海軍は、イギリス海軍を範として成長してきたから、カレーに目を付けた」と横須賀側は主張しているが、イギリスを模範としているにしては十年以上の歳月はちょっと気付くのが遅すぎるようである。しかもこの高木の一件ではまだカレーの事についてはなんら記述はされていない。単に「米麦等食」「洋食」という話である。さてここで少し頭を切り替えてみよう。古来より軍隊が必要としてきたのは最新の兵器テクノロジーと最新の兵站テクノロジーである。古代の戦いにおいても兵糧基地を叩く事が勝利への近道とされており、とくに三国志の戦いにおけるそれは顕著である。それ程兵站というものは重要であるといえる。後に開発された『缶
詰め』というテクノロジーは大発明とされ、その後の戦術を根本からくつがえしたとも言われている。しかし海の戦いともなれば毎日缶
詰め…というのも感心できない。数カ月間は陸に上がる事が出来ず、食事こそが生きることの楽しみであり、志気に多大なる影響を与えるだろう。それは肉体と精神の両方の充実を図る必要があるが、供給する側と受領する側の最大公約数を見つけるとするならば、結論として簡単な材料で、簡単に作れて、大量
に作れるが食器も少なくて済み、栄養があって、腐りにくく、美味しいもの、と非常に難しい要求である。しかし海軍が採用した肉じゃが(『甘煮』と呼ばれる)や、カレーは飽きがあまりこなくて、まさにその要求をかなえるのに好都合な食事である。では次にそのカレーをすでに艦上食としていたイギリスに目をむけてみる。
■イギリスとカレー■
一時は大英帝国と呼ばれ、世界を圧巻したイギリスは言わずもがな海軍国である。ちいさな領土で勢力を広げるには海外への遠征が必要であり、それにはどうしても船と軍隊がいるからである。一時期、フランスという大国の存亡に関わる程の侵略(ジャンヌ・ダルクの時代ですな)までしているイギリスは世界に多くの植民地を有していた。カレーの国インドもその一つである。イギリスとインドは古くからの付き合いで、イギリス国内ではしばしばインドブームが起こるといわれる。インド棉のファッションもさることながら、欧州では大変貴重な香辛料を使うカレーもそのひとつである。カレーはインドにおいては無数の料理の総称のようなもので、古代より医薬品や防腐剤として使われたさまざまな香辛料を、調味料として使った料理のことである。それをあたかも一料理のようにしてしまったのは統治国であるイギリスだ。インド料理に欠かせないガラム・マサーラとよばれる混合香辛料の雰囲気を模して、30数種のスパイスを混合したカレーパウダーやルウを商品化する。そしてそれを郷土料理であるシチューの調味料として使うのだ。そしてカレーはひとつの料理として普及し、やがては現代のものに近い小麦粉をつなぎに使う粘性の強いものになっていった。
医薬品や防腐剤のかわりになっていたカレーを軍隊が採用するのも当然な流れである。シチューの材料である牛乳は長い航海、とくに南方では大変腐りやすいことは日本にいても解る。
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高木兼寛/たかきかねひろ
(1849〜1920)
宮崎県高岡町の人。海軍軍医であり、ビタミンの父とも呼ばれた。その業績は世界にも知られている
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9/3:エヒラギャラリーの江平さんから『高木兼寛』の記述の部分で修正をお受けいたしました。この場を借りてお詫びと訂正をさせていただけます。ありがとうございました。m(_
_)mペコリ。 |
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